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ITO'S MESSAGE 代表・伊藤秀裕メッセージ

弊社代表の伊藤が、何気ない日常の中で感じたこと、考えたことをつれづれなるままに書き綴ります。

2016/10/13
VOL.9
正義とか快感とか、一方向にしか向かわない言葉は心を狭くすると、どこかに書いてあった。それなら、いつもやりたいことしかやらないと思っている人間は、どれだけ了見が狭いのか…どこから天の啓示でも受けて「お前は、世のため人のため、これをやりなさい」という言葉が、もしかして聞こえてくることがあるのだろうか。そこで、ふと胸に手を当てて考える。自分はやりたいことをやっているのではなく、本当はやりたいことなんて、"状況"や"タイミング"の方がこっそり囁きかけて、それを自分は、やりたいことだと思い込んでしまっただけではないだろうか。
少し昔は、SMから童話まで面白いものは貪欲にものにして映画にすると豪語していた。この無節操な傾向のなさだけは、今も続いている。今年は、片想いをテーマにしたアンソロジー映画「全員、片想い」が上映され、その後に全編アクション尽くしという「彼岸島」が続き、来年春先には「身体を売ったらサヨウナラ」なんて不埒なタイトルの映画の上映が控えている。
これから"やりたい"と思う企画も、今どの作品ともリンクしているものは何ひとつなく、だから自分の無指向性に、自分自身が戸惑っていたりする。
いい意味で、いわゆる"エッジ"のきいた企画、悪く言えば"隙間狙い"で、人の手のつけないもの(または手をつけにくいものともいう)を手掛けるのが習性のようになっている。
たまには王道を行く企画をとも考えるが、そういうものは、そもそも王道を行く東宝あたりのやり手プロデューサーが、四六時中、監視の眼を光らせて、間違ってもこちらにこぼれて回ってくるようなことはない(だろう)。
敗北宣言に等しいこの開き直りでやるしかないのだ。
企画者としては、悪食かもしれないが、いたって美食家で、東に旨い寿司ネタがあると聞けば飛んで行く、西にレアなきりりと辛めの酒があると言われたら、やはり飛んで行きたくなる…。
妄想の底無し沼に溺れ、ふと芽生えた欲望に身を焦がし、身悶える。
正直な話、還暦をとうに過ぎた今でも煩悩無限に生きている。

2016/06/03
VOL.8
2年越しで取り組んでいた「全員、片想い」が、7月2日ようやく東映系で公開の運びとなった。エブリスタで投稿小説を募り、朗読劇は前哨戦、小説も幻冬舎から出版されることになり、最後に映画公開と、さまざまな媒体を駆使して突き進んできた企画だ。7組の男女が織り成す、片想いアンソロジーとでもいうべき映画で、僕にとっても刺激的なテーマだった。
10月には3年越しで完成にこぎ着けた「彼岸島」の公開も控えている。
また、僕自身の演出で「棒の哀しみ」という映画も完成させた。恩師の神代辰巳さんが、奥田瑛二で作った映画のリメイクで、今回は加藤雅也が主演を務めている。
それにしても、うちの映画企画は、どうしてこうも"傾向"がないのか。
去年は超特急というアイドルグループの男性版チアリーダーの映画を作っていたし、その前は釈由美子さんの「KIRI」という女性アクション映画も作っていた。
うちの会社は企画が全員女性で、昔のようにヤンチャだとか、アクションだとかいうジャンルの企画が生まれにくいせいもある。僕が唯一の抵抗勢力で、何とか硬派な映画を成立させようとしていた。と思ったら、いつの間にか「全員、片想い」などという、超のつく切ない恋愛ものにはまり込んでしまった。節操がないのは僕の方かもしれない。
人と同じものを企画したら負けてしまうし、人と違うものを目指すのが自分の信条で、勢いどんな球でも打ち返せればそれでいいと、ストライクゾーンにこだわらないスイングを心掛けているのだ。そろそろ次の企画に取り組まなければと、血に飢えた狼のように刺激的な企画を漁っている。
僕の嗅覚を刺激する"すぐれて危険な"企画に出会うため、今日も僕は街に出ることにした。と、ドアを開けかけたら
「飲みは駄目です!」
と、厳しい女性の声が背中にとんできた。

2015/12/22
VOL.7
のめり込むより少し身を引いた方が世界を細やかに感じられるというが、ずっとのめり込むことしかできなかった。
そうすることで自分以外、自分以上の何かを感じることを拒んできたような気もする。
「小さくて暗い星を見る時のコツは何か知ってる?」
そう言って僕は得意気にひと間おいて相手を見る。
「さあ」と相手は首を傾ける。
「それはね、目の端で光を感じることだよ」と、僕は答える。
目の端に見えたはずの光は、正面を向いた途端消えてしまうのだ。子供の頃に発見した、その理屈を僕は大人になってから何回も何十回も話をしてきたような気がする。
その秘密を口にした途端に、僕は何かを脱ぎ捨ててしまった。夢や幻想に満ち満ちた日常は、荒々しい、リアルで辛辣な現実にとって変わっていった。
僕は、否応なしに、日々の糧と向き合わざるを得なくなり、人の嘘に出会えば、自分の嘘も許されるのだと信じ、人に欺かれれば、人を欺く時がきても恥じることはないと自分を奮い立たせる。
子供の頃、目の端に見えていた星の光を、僕はもう一度見ることができるのだろうか。
夜の空を見上げることがなくなって久しいのだが、いつか試してみたいと思っている。
あの星の光は本当に存在したのか、それとも、もう二度と見ることのできない光なのか。
と同時に、わき目も振らずに正面から見据えていたものの他に、忘れてはならないものや、大切な何かが存在するのだとしたら、僕は今それが見えるチャンスにあるのだということを知るべきだということも…。
本当はそれを見つけたくて、違うところを見続けていようとしていたのかもしれないといったら、言い過ぎだろうか。
何かいつもと違うことに触れる、何か自分以外、自分以上の違う色や形、香り、そして、不変的なもの、無限に変わり続けるものに触れていたいと願う心が、芽生えている。この衝動を突き動かすものの正体を僕はまだ知らない。

2015/9/15
VOL.6
人生はクローズアップで見れば悲劇、ロングショットで見れば喜劇であるとチャップリンは言った。
どうすれば自分を遠景で眺めることができるのか、そのコツが未だによく掴めない。
つまらないことでくよくよしたり、いじけたり、舌打ちをする日常からどうやって解き放たれることができるのだろうか。
一番の近道は、悪い道路という言い方もある。コツコツ回り道、寄り道をしながら生きていくのが自分らしくていいと諦める手もあるのだと開き直るか。
去年、小劇場の舞台を2本も演出して会社を2ヶ月以上"留守"にした。その罰として今年は"舞台禁止令"が出ていたのに、来春公開予定の映画「全員、片想い」の前哨戦として、同じタイトルの朗読劇を10月末にやることになり、再び舞台演出に挑戦している。
僕は何度も同じ轍を踏む男なのだ。わざわざ買ってまで苦労を背負い込む質なのだ。貧乏性なのだからしょうがない。ちょっと気恥ずかしいが、生涯現役ですと、今は自分に言いきかせている。
目の前に敷かれた道から外れる情熱と乱心が巣食っていると呟いた途端、寂聴の笑い声が聴こえてきた。

2014/12/09
VOL.5
最近やたらゾンビが目につく。
つい最近バイオハザードはこうして生まれたなんて後付けみたいな映像を見て、何故かDNA変換で普通の人間がゾンビになってしまっていた。
通常、ゾンビに噛まれたら人間はいづれ発症して自分もゾンビになってしまう。
不思議なことに大抵の映画には、最初にゾンビになった経過は詳しく描かれていない。ゾンビはある時、ある所に出現して繁殖し続ける。
動作ものろいし、知能もないに等しいのだから、一対一なら倒せるか、逃げ切るチャンスはある。ただゾンビは質ではなく、量だ。
取り囲まれたら多勢に無勢で勝ち目はない。また、噛まれて負傷した仲間をいづれ撃ち殺すかどうかしなければならないという葛藤を道連れだったりする。ゾンビになりかけた人間が、自分が自分でなくなる前に殺して欲しいと仲間に頼んだりする。
大抵の場合、苦しみ悩んだ挙句に仲間が手にかけてゾンビ化した人間を始末することになる。中には人の手を借りず、自ら死ぬという強者もいる。
ここには、人間(半人間も含まれる)には悩む知性があるが、ゾンビには悩んだり苦しんだりするセンスはカケラもないのだという前提がある。
そう言えば数年前、韓国映画で確かゾンビ狩りをする社会が描かれていて、ゾンビを匿う恋人の女性の話があったことを思い出した。
それどこか、ゾンビ化した母親まで鎖につないで生肉を与えて養ったりしていた。
最後に女は、自らもゾンビになることを決意して、恋人と夜の闇に消えてくような話だった。
ゾンビになった男はゾンビ狩りに脅えながら恋人に守られていたが、何よりその女が自らゾンビになるという意志の強さに惹かれた。アンタが死んだら私もついていくからね、なんて甘い言葉は慰めにはなっても、なかなか実行できるものではない。
いつの間にかゾンビ映画の話から、人は如何にして人間であることを棄てられるかという話になってしまった。
人は愛のためにゾンビになれるか、愛のために死ねるかってそういう風に展開していくと、急にゾンビの話でもなんでもなくなって、あのさ、死ぬ程好きな人が死んだら、君も死んだりする?という謎かけになったりもする。
そうそう「愛と宿命の泉」のイヴ・モンタンが、自分の全てを与えようとしていた出来の悪い甥っ子が(本来は自分の仕掛けた罠が報いとなって)首を吊って死んだ日、
或る人にこう告げる。
「今日、僕は死にます」ひと言残して、その夜、ベッドに横たわったイヴ・モンタン扮する阿漕な商人は、胸の上で両手を組み、自ら意思の力で死んでいくんだけど、それが衝撃的だったことを今更のように思い出す。
人を思う心の強さは、侮れないなとつくづく思う。
誰かのため、何かのために死ねるという覚悟は、でもひとつ間違えれば自爆テロにも繋がる。そう言えば、自爆テロの元祖は神風特攻隊の日本ではないのかと思ったところで、何でゾンビの話から始めたのか、この話のオチは何なのか、ひょっとしてこの話はオチないのではないかという胸騒ぎがしてきた。いや、それどころか絶対オチない話だと確信しています。
来年早々にオチのある話を考えます。
よろしく、悪しからず! 来年もよろしく!

2014/07/03
VOL.4
昔々の或る日のこと
よく仕事させてもらっているメーカーの副社長が、わざわざ僕の出先まで来てくれたことがありました。近くの喫茶店でお茶を飲みながら仕事の話をしていると、ふとその合間に彼が口にした言葉が忘れられない。
「この業界の不振のさなかに、小劇場のアンダーグラウンドな芝居にうつつを抜かしているプロダクションの社長がいるらしいですよ」
とにかく驚いた。それは何を隠そう自分のことなのだ。咄嗟に言葉を飲み込んでしまう僕を見ていた副社長の表情が、みるみる蒼ざめていくのが分かった。
そう、僕は不況のさなかに本業を疎かにして小劇場の舞台にはまりこんでいた。
あれから15年、そして再び僕ははまりこんでいる。というか“はめられた”のかもしれない。4月に15年ぶりに小劇場向けの舞台を12人のダブルキャストでやり、会社のスタッフと家内からはこれきりと言われて、かしこまっていた筈なのに、8月に再び舞台を立ち上げようとしている。今は決して本業を疎かにしている訳ではないが、かなり白い眼で見られている気がする。現場をやる機会が減った分、脚本などで作品になるべく係わりたいと思っている気持ちがオーバーフローして、いつの間にか舞台の演出へと向かわせているのだろうか。
勿論、映画の企画も忘れている訳ではない。今年は原作づくりにも着手した。映画のネタ造りに欠かせない売れた原作の映像化権を取り合うより、まず売れる本づくりをしようという作戦である。年を経るごとにやることは年々増えてゆくから、どんどん時間の経つのが早くなる。今、実感としては、一日18時間ぐらいかなあ! 誰か、時間を貸してくれる人はいませんか。

2014/02/07
VOL.3
近頃、腹が立つのは、アベノミクスに代表される自己主張と自己正当化の傾向である。相手の目線や立場に立つことを忘れた孤立上等御意無用の風潮にはうんざりする。
要するにこれは、他者と対話するコミュニケーション力を喪失していることの裏返しでもあるのだ。映画もひとつのコミュニケーションの文化的装置として考えるなら、他者の思いをすくいとるものでなくてはならないのだと心掛けたい。
聞く耳を持たないものは語る言葉を持ち得ないし、辛い時、哀しい時に語り合える言葉と仲間を持つ人は、楽しい時も分かち合える。苦しみは半分に、喜びは倍になる。
心を開くことは勇気の要ることだけど、今年はそのことを肝に銘じようと思う。
いい意味で開き直るのだ。
いい意味で曝け出すのだ。
そういう心掛けが、あなたの最大の弱点になると呟く声が聴こえる。どれだけの裏切りに合えば鎧に身を包むのかと問われても、今年は聞かなかったふりをしよう。

2012/12/06
VOL.2
映画はエンターテイメントというけれど、そのエンターテイメントとの端くれに名を連ねて、ずいぶん長い時が経つ。
タイトルひとつでこれは傑作(?)だと決めつけてみたり、
極めつけのエンディングをイメージしてから最初のシーンを書き出したり、
このキャストにこんなことやらせたことないよねなどと残酷なアイデアに一人酔い痴れてみたり等々。
斬新でとんでもないことが大好きで、それがエンターテイメントの原点だと思っていた。
最近それがちょっと変わってきた。
次の展開を読ませないスリリングな話もいいけど、ホッとして心和む予定調和ものもいいものだと考えるようになってきた。
そんな話を若手の脚本家に話していたら、彼女が遠慮がちに「予定調和ってほんとは現実にあまりないんじゃありませんか」
と全然予定調和じゃない答えが返ってきた。

2012/12/06
VOL.1
大好きな真樹先生が今年の正月早々に亡くなって、今度は豪放磊落な若松監督が旅立った。
身近な先輩を失って省みると、自分の前に道はなく自分の後ろに道があるという高村光太郎の言葉が身に沁みる。
彼らから受け継ぐべきものが何かあるとすれば、権力に媚びないこと、弱者を決して見下したりしないこと、
闘うことを恐れないことだろう。
人に出来るものではなく、自分しかできないものにチャレンジし続けるモチベーションを
いかに持続できるかが問われているような気がする。
尊敬すべき先輩が天国からずっと僕を見てる筈だ。
なんでいっちゃたんですかって愚痴をぐっとのみこんで、映画を造り続けますよ、死ぬまで!